凍/沢木耕太郎

凍 (新潮文庫)

凍 (新潮文庫)

最強のクライマー 山野井泰史・妙子夫妻がヒマラヤのギャチュンカンに挑むノンフィクション。
登山の歴史の中で八千メートル級の14の高鋒が各国の登山隊によって踏破され、世界に未登の頂が存在しなくなると、登山家たちの視線は「ルート」や「登山スタイル」に向いていくことになる。いかに困難なルートを開拓したか、南壁なのか北壁なのか、何人で登ったのか、酸素ボンベは使用したのか…という具合である。
山野井夫妻のスタイルはそのなかでも最も過酷なアルパイン・スタイルだ。アルパイン・スタイルとは酸素ボンベをもたず、できるだけ装備を最小限に抑え、ベースキャンプから一気に頂上を目指す登山スタイルである。さらに1970年代後半にイタリアのメスナーが八千メートル級の高鋒を「ソロ(単独)」で登頂し、世界に究極のアルパイン・スタイルの存在を提示すると、以後先鋭的なクライマーたちはアルパイン・スタイルで少数によるヒマラヤ登頂に試みることになる。
山野井自身はテレビや週刊誌による取材を好まず、スポンサーをつけずに登山の費用を自費でまかなっていたので当時一般的には無名のクライマーであった。だがすでに名だたる高峰を制し世界的にも見ても最強のクライマーの一人であった。その山野井が選んだ次の山は、ギャチュンカンという八千メートルにわずかに満たない山の北東壁ルートの開拓だった。きっかけは友人のクライマーにギャチュンカンの写真を見せられたことだった。山野井はその美しい高鋒をチベット側から登ることに強く惹きつけられた。2002年の8月、山野井の妻でこちらも世界的にみても有数のクライマーの妙子とともに、ギャチュンカンのバリエーションルートにチャレンジする。
ひさびさに読んだ沢木耕太郎さんの本。結末を待たずに、涙がこみあげてくる。それは圧倒的に強い者を見たときに感じる恐ろしさと敬意の混じった畏敬の想い。それに似た感覚をブルブルと感じた。
たとえば、彼らはトランシーバーを持たない。もちろん自分が遭難しても誰も助けられるはずがないという事実や荷物を軽くする目的もある。だがそれよりも、トランシーバーはベースキャンプとの交信で気持ちを安らげる一方、登る意識の集中を妨げる。文明の利器を携えていくことで素のままの自分が山と対峙する感覚がなくなってしまう、という。何にも頼らず、神仏に祈ることもせず、ただ自分の力で乗り切るのだと腹を括る覚悟。山と自分とがただ裸で向きあう喜び、といっていいだろうか。これが研ぎ澄まされた嗅覚で生き延びてきた方の感覚なのかもしれない。
また、ギャチュンカンの北東壁にこだわった山野井だったが、北東壁は登れるが降りれないことが分かった。そこで北壁を登る決断をした。この決断が、北東壁にこだわっていたわりに、かなりあっけない。その他、妙子の登頂を諦める決断や雪崩にあってロープを回収しにいくときなど、大変辛い決断をじっと見つめてやり遂げる潔さのようなものがある。無謀な決断はしない。そしてその決断の裏には、純粋にクライミングが好きだという想いを感じる。
個人的に印象にのこったのは、2日間の厳しいビバークを終えて平らな箇所でビバークした朝のこと、妙子が「これまでの人生でいちばん幸せかもしれない」と思うシーン。ひどい天候に襲われながら、手足も凍傷で切断を覚悟し、そんな状況にいながらもなおも「幸せだ」と思える妙子。このタフさとクライミングへの愛は尋常ではない。
正直言って、いちいち説明できることではない。読んでほしいと素直に思う。沢木耕太郎さんの本の中でも最も好きな一冊になりました。
※あと山野井さんの「情熱大陸」を発見したので貼っておきます。でもぜひ本でよんでほしい。